【質問】中華と言えば何を連想しますか?
八宝菜?酢豚?はたまたフカヒレスープ?
ひとによって様々だと思います
でもうちに来て
僕があなたに食べてほしいのは
焼きそば なんです
「なんで焼きそば!?」
ほかにもメニューいっぱいあるやろうに!
なんでそんな
どこにでもあるようなもんを看板に持ってくるのか?
そこにはこんな思いがあるんです
昨日、阪神淡路大震災から20年が過ぎました
僕もまたあの震災で大きく生き方が変わった1人
当時僕はアパレル会社に勤めていました
中国の寧波というところで駐在員として
工場の生産と品質管理をまかされてたんです
一日に何十万枚という商品が出来上がってきて
それを見て回るわけですからまぁ~大変
納期が迫ると夜通しフル稼働するので
こっちも徹夜です
それでも仕事は大変だったけど
とてもやりがいのある仕事でした
1.17日
いつも通り出勤して
いつも通り本社からの電話をうけて。。。
でもこの日にかかってくる電話の内容は
いつも通りじゃありませんでした
「神戸が大変なことになってるぞ」
とは言え、当時そこは中国の片田舎
まだ田んぼ耕すのに水牛が登場してるような場所
日本のテレビなんか映りません
僕が耳にするのは
国際電話で短いやりとりの中
すさまじく増えてくる死者の数
「こらあかん、お前一回帰ってこい」
上司の一言で私は
とにかく日本に帰ることになったのです
会社からいただいた物資を乗せ
バンにスクーターを入れて
交通情報を聞きながら
山手から神戸に入る
もうすぐ神戸だというのに
山側ではまだパチンコ屋が開いてました
「なんや別にたいしたことないんかな」
そう思いながらトンネルを抜けた先
広がってた光景は今でも目に焼き付いてます
「これが神戸?これが日本?」
そこから先はもう道路がぐちゃぐちゃで車も通れません
そこでようやくスクーターを積んでた訳が
よくわかりました
変わり果てた街並みを見ながら
到着した我が家
その時に僕をみて母が発した一言
「なんで帰ってきたん!」
ほんといろんな気持ちが詰まってたんやと思います
そこでぼくはほんの数日
みんなと共に生活しました
商店街にある古本屋さんの駐車場
そこにみんなが集まって
家にある食材や物資を持ち寄って
助け合うその姿
数日後中国に帰った後も
ずっとそのことを考えてました
(このままでほんまええんやろか)
中国から帰ってきた僕は
父に自分の気持ちをぶつけました
その時両親もまた灘にあったおじいちゃんのお店
「秀宝園」を改装して営業を再開してました
「このままここでやっていって
春日野道は売ろうかと思ってる」
そう言った父はとても寂しそうでした
「俺も帰ってきて店するわ」
父はすぐにうんとは言いませんでした
せっかく得た就職先
この時春日野道のお店は全壊
お店を建て直すには
2重の借入をするということ
多くの決断をして
鳳凰のように
再度聚鳳を復活させよう
「もっかいやってみるか」
そこからまたすべてが動き始めたのです
しかしそのまますぐにお店に入ることを
父は許しませんでした
「ちゃんとした料理屋で修行積んでこい」
こうして私は新長田にある
神戸飯店でお世話になることになりました
全てが順調かのように思いました
でもそんな矢先
灘のお店が火事で全焼
幸いなことに家族は全員無事
とはいえ先のわからぬまま
ひとまず全員
当時結婚してた妹夫婦の家にお世話になることに
「ピンポ~~~ン」
呼び鈴が鳴りました
するとそこには神戸飯店の社長の姿が!
新聞で火事のことを知って
探して訪ねてきてくれたのです
涙がとまりませんでした
そして神戸飯店が所有する仮設住宅に移り住むこと
父も神戸飯店にお世話になること
そうしてまた一縷の光が差し込んできたのです
こうして震災後、支店は違いますが
親子そろって
神戸飯店にお世話になることになりました
私は本店で下積み
父は学園都市店で働くという生活が続きました
(そうそう、相生支店がオープンしたときには
震災前まで聚鳳で働いてた和兄ちゃんも
神戸飯店に招き入れてもらいました)
月日が流れ
新しく聚鳳建設の目途がたったころ
父はそちらに専念するために
離れることになります
この時に私が父にかわり
学園都市店へ行くことに
そこではじめて
料理人として
私たち2人が出会うことになりました
小さい頃
皿洗いでお店を手伝うことはあっても
そこはやはり親子
今は違う
同じ料理人としての立場で対峙して
あらためて父の偉大さがわかりました
学園都市店 引き継ぎにために
父からも料理を教えてもらうことに
そこでまだまだ見習いだった私が
教えてもらったのが
やきそば でした
はじめて覚えるという立場で見る
やきそば
うちで何度となく食べてきたものですが
料理人として、
お客様に出す料理を作る者として
ここではじめて教えてもらったのです
引き継ぎのため同じ職場で働いたのは
一週間くらいだったでしょうか
そこから父は聚鳳オープンに向けて
動き出します
私は引き続き学園都市店で
料理修業です
ある日、兄弟子が私に言いました
「おい、やきそば作れ」
そこで私が作ったやきそばを食べた
兄弟子の一言
今でも強くおぼえています
「お前、おやっさんと同じやきそば作るな」
とてもうれしかった
平成9年、震災から約2年
ようやく聚鳳がここ
春日野道商店街に戻りました。
当初私はそのまま
神戸飯店で修行を続ける予定だったのですが
ふいに従業員が辞めたこともあって
急きょお店に戻ることに
まだまだ見習いの身でしたが
こうなるとそうも言ってられません!
毎日必死で料理を覚える日々
そんな中あらためて
あのやきそばを教えてもらいました
うちの生麺で作るやきそばは
以前教えてもらったのよりも
ずっと扱いづらく、繊細で
そしておいしかった
「うちの看板メニューや、お前にまかした」
そう言った父の言葉は
とても重く、今もずっと心に残ってます
そうして気付けば25年
ただ愚直にそれを守り続け
何十万のお客様に
召し上がっていただきました
こうした声をいただくことが
日々の励みになり
気を引き締めることにもなります
だから
「あなたが一番得意な料理は何ですか?」
そう尋ねられたら私は迷わずこう答えます
「やきそばです!」
そんな父が亡くなってから
もう8年が過ぎました
お店は今も
多くのお客様の笑顔に守られてます
僕たちは今日もここで
がんばってるよ
父はいま
笑ってくれてるでしょうか
神戸で一番、想いのこもった
やきそば
食べにきませんか?